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駄文書きの屋根裏部屋

ネット駄文書きの備忘録です。ネット小説や出版作品について、あれこれと語ります。

私における文学の定位

はじめに

今回は、〈文学〉という言葉について、最近思ったことを書いてみたい。壮大なテーマだな、と思われるかもしれないが、何のことはない、個人的なエッセイである。ネットにおける批評とテキストのあり方を通じた、作者の感慨と捉えていただきたい。

文学の定義に関する最小限の要素

文学とは何か、という問い自体が、ひとつの文学的な問いである。これについては、あまり議論を待たないであろう。しかし、自分が文学だと思うものが文学である、という主張は、言語の役割を崩壊させており、是認できない。それは、言語ゲームの拒絶だからである。言語が公共的なものである以上、ある単語に各人が任意の意味を与えるということはできない。

けれども、文学に一義的な定義が与えられていないのも事実である。そこで、文学という限り、この要素は広く承認されるであろうという最小限度の要素についてのみ言及する。それは、「学的方法論」(wissenschaftliche Methode)の存在である。文学とは、何らかの学的方法を、テキストに対して適用する学問領域である。この学的方法には限定を設けないが、しかし、学的方法が不在な文学というものは、それ自体で形容矛盾であると言わねばならないであろう。

批評の成立しないテキストは文学ではない

文学がテキストに対する学的方法の営みである限り、批評の成立しないテキストは文学の対象にならない。このことは、私の文学論において、最も重要なテーゼのひとつである。文学は、感想ではない。ここで感想と言うのは、学的方法によらない心情の吐露である。「おもしろい」「おもしろくない」というのは、感想に属しており、それは文学を構成しない。文学が単なる売り上げや投票で決せられないのは、このような学問性の要求に従うからである。

それゆえに、私が批評の際に気をつけているのは、学問性のないデータから出発するのを避けるということである。小説や漫画においては売り上げ、アニメやドラマにおいては視聴率がそれに該当する。売り上げの高低や視聴率の高低は、その作品の学問性に対して、何ごとも述べていない。このことを失念すると、「○○は売れた。なぜ○○は面白いのか」「○○は売れなかった。なぜ○○は面白くないのか」という、批評の皮を被ったマーケティングの話に陥る。批評家がマーケティングの話をするのは、餅は餅屋の原則に反しており、ほとんどの場合は机上の空論になるのではないかと思う。

批評家の役割をもう一度問い直すこと

批評家の役割とは、テキストを学的に分析することであり、自分の感想を述べることではない。私はこのことを、自戒としてここに明記しておきたい。もちろん私も、「この作品は面白い」ということをしばしば述べるのだが、それはあくまでも感想として述べているか、あるいは「学問的な分析に値する」という意味で使っているつもりである。疎漏はあるであろうが、なるべく気をつけている。そのような視点からネットにおいて文学的な作品に出会えることを、私はとても楽しみにしている。