駄文書きの屋根裏部屋

ネット駄文書きの備忘録です。ネット小説や出版作品について、あれこれと語ります。

自作を酷評する〜処女作『水の女』

前回は、小説執筆の動機を書いた。今回は、自作を酷評するというかたちで、個別作について振り返ってみたい。まずは、処女作『水の女』である。

作品紹介

小説家になろうで初めて書いたこの作品は、ミステリになっている。主人公、霧矢十六夢が、異世界の女検史官トト・イブミナーブルにつれられ、水の都ベネディクスをさまよう物語だ。異世界ミステリであり、筆者がめざしている超常ミステリの実験作でもある。《本のなか》という二重構造をとったのは、『雨月物語』に範をとって、翻案を重視したからにほかならない。下敷きになっているのは、安部公房砂の女』。タイトルが『水の女』となっているのは、このため。

自評

登場人物の錯綜

まず目につくのは、登場人物の多さだ。多過ぎる。探偵役だけで7人というのは、やり過ぎである。ちょい役の者もいて、実際には7人も必要なかったことの証左であろう。なぜこのような失敗を犯したのか。おそらくは、プロットの不在に起因する。当初被害者役であった者が犯人になるなど、物語の進行が二転三転している。このときプロットを書くという習慣がなかったのは、本作においてはマイナスになっている。

劇中劇

次に目につくのは、「主人公が本のなかにいる」という設定を活かし切れていないことだ。現実世界の話でもよかったはずである。すくなくとも、異世界単発でもよかったはずである。また、現実には存在しない著作『風に凪ぐ人魚の恋』を用いたことも、あらすじを複雑にしている。劇中劇はミステリを面白くするか、という根本的な問題が厳然とそびえたっている。近著の『電嵐城殺人事件』は、この反省を踏まえて執筆した。しかし、うまくいっているとは言いがたい。

思想性の問題

拙作は、「論に代えて物語で」思想を表現するものである。本作『水の女』にも、いくつかの思想が盛り込まれている。そして、この「いくつかの」という複数性に、最大の問題がある。焦点がぼやけているのだ。一方では、ひとは故郷を捨てられるか、というテーマが扱われている。他方では、新自由主義経済と富の寡占が扱われている。両者は、並行して論じるものではない。前者が犯人によって、後者はジャコモという豪商によって代表されており、この関係も若干曖昧になっている。若干というのは、部分的には成功しているように見えるからである。しかし、部分的な成功が全体のイメージをぼやけさせている可能性も否めない。

まとめ

以上をまとめると、問題の多さ故に、まさに処女作と言えるような作品であった。これらの問題点を解決していくことが、これからの修練の課題になっていくと思う。